コマ撮るヒトビト 2017年12月13日

オカダシゲルさん インタビュー 1/2

コマ撮り作家さんなどを紹介するコーナー「コマ撮るヒトビト」、2人目はアニメーターであり作家のオカダシゲルさんです。

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オカダさんのサイト「パペットBOX」はコマ撮りの作り方が満載で、「パペットBOX」を見てコマ撮りを始めたという人が僕の周りにもたくさんいます。また、仕事もしつつ自主制作の作品も頻繁に公開されていたり、コマ撮り勉強会を開いたり、すごく精力的に活動されている方です。仕事で一緒になったことはないのですが、いままで個人的に現場を見学させてもらったりお話をしたりしてきました。今回はあらためてインタビューをしてきました。長くなってしまったので2本立てです。

取材したのは2017年2月でした。公開まで間が空いてしまってすいません!!
インタビュアーは竹内泰人と阿部靖子です。

大学でコマ撮りと出会う

泰人(以下、た):まずコマ撮りを始めたきっかけなどを聞きたいのですが。

オカダシゲル(以下、オ):僕は高校の時から、映画に出てくるアニマトロニクス(機械仕掛けで動くリアルな動物造形)に興味があって、大学も機械工学科に入ったの。ロボット技術を勉強してから特撮をやろうって思ってたんだけど。でもロボットを研究していた教授が僕が入った年にいなくなって、結局ロボットの勉強はできなくなっちゃって。

それでどうしようかな。と思ったんだけど、元々、映画研究部には入るつもりだったから、とりあえず入ってそれで最初に8mmフィルムで撮ったのがたまたまコマ撮りだったの。そのころストツー(ストリートファイターII)が流行っていて、使い捨てカメラでパンチとかキックのポーズをした友達を撮って、現像した写真から友達を切り抜いて、コマ撮りでストツーやったら、大学合同の上映会でめちゃくちゃ受けちゃって。「俺、才能あるかもしれない」って勘違いして (笑)、それですっかりコマ撮りにはまっちゃって。

ハリーハウゼンの『タイタンの戦い』とかそういうのは映画館で見てたんだけど、その頃コマ撮りの方法は何にも知らなくて。とにかく当時のコマ撮り映画のメイキングが載っている雑誌とか8mmフィルムの雑誌を買ったりして、コマ撮りの作り方が載っている本をひたすら探してた。

*『タイタンの戦い』
1981年公開、ギリシャ神話をモチーフにした映画。作中のさまざまなモンスターが特撮やパペットアニメーションでつくられた。手がけたのがストップモーションアニメーターのレイ=ハリーハウゼン。

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オカダさんが学生時代から大切に持っている映画雑誌たち

オ:映画研究部の他の人たちは実写の映画を撮ってたけど、僕は一人でコマ撮りやってて、教えてくれる人もいないし一人で黙々とやって、すごい異端児ぶりだった(笑)それから大学4年間は、ずーっとコマ撮り漬けで12~3本は撮ったのかな。コマ撮りばかりやってたから、単位ギリギリで卒業したんだけど、いまだに夢で見るもん(笑)。「卒業するのに単位足りない、どうしよう!」って焦って (笑)、でも「あれ?俺もう卒業したよな?」って思って起きる。よっぽどだったんだね(笑)

卒業後、システム系の会社に就職

た:卒業した後はコマ撮りとは関係ない会社員をしてたんですよね?

オ:4年間コマ撮りやってきて、でも大学を卒業するときにどうしようかと。その頃に『ジュラシックパーク』(*)が公開されてショックを受けてね。「あ、もうストップモーションの時代じゃないなー」って思った。

*『ジュラシックパーク』
マイケルクライトンの原作をもとに作られた映画シリーズ。一作目は1993年公開。スティーブンスピルバーグ監督。恐竜のシーンは当初ストップモーションで作られる予定だったが、フルCGで作られたティラノサウルスを見たスピルバーグが全面的にCGを使うことに変更したエピソードが有名。実際、全シーンがフルCGになったわけでなく、多くのシーンはアニマトロニクスや着ぐるみの操演などで作られたが、多くの人にCGのすごさを見せつけた映画。

オ:元々、コマ撮りを仕事にするよりも、自分の作品を作りたい気持ちが強かったから「もういいや、コマ撮りは趣味にしよう」ってコマ撮りを仕事にするのを一度諦めて、それでシステム系の会社に就職したの。プログラマーをやってシステム構築して、それも、ものを作る仕事だし、人の役に立つことだから楽しかった。働いている間もコマ撮りの自主制作は続けてたんだけど、でも、会社入って2年目と3年目がすごく忙しくって、コマ撮りが出来なかった。コマ撮り始めてから、唯一コマ撮りやらなかった2年間。

その頃、ホームページを作るのが流行りだして。まだブログもない時代で。それで仕事でも会社のホームページを担当することになって、自分でHTMLとか勉強して作っていたら「これ僕でもできるじゃん」と思ってね。その頃ね、日本でコマ撮りやってる人がけっこう自分のホームページを開設したんだよね。僕のホームページを作ったのは1999年だった。最初のサイト名はG-MOTIONだったかな。

た:オカダさんの初期の作品にクレジットでG-MOTIONってでくるのはそれなんですね。Gはどういう意味ですか?

オ:Gはグラビティだったかな。加速とか動きに関係のある名前ってことで。自分で勝手に作ったブランド。それで最初は自分の作品をQuicktimeムービーでホームページにアップしてた。その頃はまだYouTubeも何もないから、もう320×160ぐらいのちっちゃいサイズのファイルで。

川村さん(*)やはしもとまさむさん(*)もホームページ作ってて。僕がまさむさんのホームページの掲示板に書き込んだりして知り合って、それでちょこちょこ交流始まって。

*はしもとまさむ
コマ撮り作家。NHKプチプチアニメ『ビーズの森のらびい』など
http://masam.sakura.ne.jp/

*川村徹雄
アーマチュアやタンク、目安棒などを作る職人、人形関節師。
http://www.modelanimation.com/

当時のコマ撮り制作方法

オ:コマ撮りソフトもまだ何もなかったから、ビデオカメラからアナログケーブルで映像信号を引っ張ってきて、Macに映像を入力できるボードを自分で増設して、プレミアで撮影してた。今は無くなったけど、昔プレミアにコマ撮り機能があって、カメラをつないでシャッター押して撮るだけの機能なんだけど、あれでひたすら撮ってた。それで『RED BRIDGE』とかずっと作ってたのかな。それでちょこちょこと国内のコンテストに出したりとかして。

RED BRIDGE

テレビ出演

オ:その頃、『ウォレスとグルミット』が日本で上映されて、クレイアニメっていう言葉が使われ始めてきて。それでテレビ番組で「コマ撮りって何?」っていう説明が必要で、テレビ局から僕のホームページに連絡があって、僕が短いサンプルの動画作ったりした。「めざましテレビ」に少し出たりして。そういう依頼が年に1~2回あって、平日は仕事だから作業は土日にやってたんだけど、たまに間に合わないときは仮病で休んで作業してたから有給はいつも使い切ってた!

彩工房からの連絡

オ:一番大きい転機だったのは、彩工房(*)から連絡があったこと。

*彩工房
1980年頃よりエコー社やビデオ東京プロダクション等で人形やセット美術の仕事をしていた 仲間が集まり結成。
その後エフェクト等の仕事をしていた メンバーを加え運営中。
コマ撮りアニメーションの美術、人形制作、アニメートに加え、自前のスタジオで撮影も行っている。
http://www.ne.jp/asahi/sai/japan/

オ:ある日、僕のホームページを通じてメールが来て、それが「オカダ君、方法はメチャクチャだけど頑張っているね。一度遊びに来ない? 」っていう微妙に上から目線の内容で。僕はプロから来たメールだって知らなかったから「なんだこの怪しいメールは」って思ったんだけど (笑)。偶然、当時住んでいた場所から電車ですぐ近くだったから、ちょっと行ってみたらコマ撮り歴何十年ていうすごい人たちが何人もいてね。びっくりして「おみそれしました!何でも教えてください」みたいな(笑)。

僕はそれまでずっと一人でコマ撮りをやっていて独学だったんだけど、そこで初めてプロでコマ撮りやってる人と知り合ったの。でね、今でも覚えてるんだけど、最初にいきなり吊りに使うタングステン線の結び方を教えてくれて。忘れないように、太い紐でその通りに結んで持って帰って、それからうちで何回も結んで練習してた。

吊り具についての記事はこちら

オ:それから、土日にちょこちょこ彩工房のお手伝いに行くようになったの。美術の手伝いで、複製作業とか色々ね。で、いろいろとコマ撮りのことを教わったんだけど、自分一人じゃもったいないって思って「コマ撮りのワークショップをやりたいんですけど」って彩工房に相談して、僕の周りでコマ撮りやってる人達が集まって2~3日やったんだけど、その時にコマ撮りアニメーターの垣内さんが先生として呼ばれてきたの。

*垣内 由加利
フリーランスのコマ撮りアニメーター。「ディズニー/マイ・リトル・ドールのオープニングムービー」「オイコス TVCM コバラちゃん登場篇」「Present For You」「ワクワクこまちゃん」など多数。

そこで初めて垣内さんと出会って…、数年後に僕が垣内さんのアシスタントになるんだけど。ワークショップが終わった後も僕は彩工房の手伝いをしながら、たくさんのコマ撮り技術を教えてもらって、それまでずっと独学でやってきたから、わからなかったことが沢山あったんだけど、それが一気に解決して自分で出来ることがすごい増えてきちゃって、あれもやりたいこれもやりたいってなった。それが28~29歳とか。

脱サラ

オ:でもSEの仕事も中間管理職っぽくなって会議も増えてきて忙しくなってきたから、コマ撮りと両立するのがだんだん辛くなってきて。その時に勤めていた会社がちょうど居心地が悪かったから一回辞めることにしたの(笑)。とりあえず一年間、好きなだけコマ撮りして、それで満足したらまたSEに戻ってもいいし、もし何かに繋がったらコマ撮りに行ってもいいかな、程度に思ってね。それで、すぐに辞めたかったんだけど、まずは一年分の生活費を貯めようと思って、結局、会社を辞めたのが30か31歳かな。その一年間で作った作品は広島(広島国際アニメーションフェスティバル)には落選したけど、他のコンテストでいくつか賞はとれた。彩工房の人たちにも見てもらったりしてね。

モンチッチ

オ:でも、あっという間に1年が経っちゃって、もうお金も尽きてきたし、再就職の準備をはじめたころに、彩工房から「今度モンチッチっていう仕事があるんだけどアニメーターをやらない?」って連絡があって。それがテレビの5分番組を半年で24話撮るっていうもので…。どうしようかと思ったけど、せっかくきたチャンスだから、やりますって返事してね。
…で、それから半年間、みっちりコマ撮り漬け。もうねー、めちゃくちゃハードだった。まずスタジオ作りから始まったの(笑)。アトリエから歩いて数分のところに、かなり古い団地があって、そこの一室を改造してスタジオにして。畳部屋だったから全部剥がして、床を木材で補強して、ノコギリと金槌片手にトンカン。スタジオが出来たら、すぐにアニメの撮影が始まったんだけど、途中まで撮ったところでテレビのオンエアが始まって。ある程度は撮り貯めていたんだけど、だんだんオンエアまでの余裕が無くなってきて、後半は朝の8時ぐらいから夜の10時ぐらいまでを週6日、休みは日曜日のみでずっとひたすらコマ撮りして、撮影が終わった後も帰ってから次の日に撮影するカットの準備をしてたから全然寝られなかった。一度、撮影中に人形を掴んだまま寝落ちした (笑)。大学の4年間よりもその半年間の方がはるかにたくさんコマ撮りしたと思う。仕事にすると全然、作業の密度違うなーって思った。アニメーターは僕しかいなかったから、アドリブとか小芝居とか細かい動きは全部僕が考えてね。正月もほとんどないぐらいの勢いで撮って、なんとか無事に撮り終わった。

で、モンチッチが終わった後に、垣内さんから連絡があって、そこからアシスタントをやるようになって、撮影が無いときは彩工房の仕事を手伝ったりしていたら、あっという間に1~2年経っちゃった。

白組の自主制作

オ:それで、アシスタントをしていると、CMの撮影現場について行くんだけど、そこでディレクターさんとか、いろいろなスタッフと知り合いになったりして、そのうち「短いんだけど、粘土のコマ撮りできる?」とか言われるようになって、とにかく食べていかないといけないから、なんでも「やります。やります。」ってやっているうちに、白組の島村社長の作品で、造形とかアニメをやるようになっていて。そのころは仕事が全然少なかったから、その仕事は面白かったし、すごく助かった。

*島村 達雄
白組代表取締役社長、CM演出、映像作家でありアニメーター。白組の社長のかたわら、自主制作でコマ撮りアニメーション映画を作っている。日本アニメーション協会(JAA)名誉会員

阿部(以下、あ):期間は長かったんですか?

オ:数年で3~4本やったかな。同時進行でいろんなの撮るの。でね、一旦、完成してもいろいろと手直しするから、作品を見るたびに「なんか前と違うな」っていうのがあるんだよね(笑)。

あ:作品ってどこかで見れますか?

オ:講演会とかやるときに流してるらしくて「オカダさん、このあいだの流れてたよ」って聞くんだけど「あ、そうなんですか!僕まだ見てないんですけどね」っていう作品がある。でもこの前作った『タップくん』は劇場でも上映されて観れた。そのあとも、ちょこちょこ変わってるけど(笑)。

た:僕がオカダさんの現場に見学にいかせてもらったときの作品ですね。

あ:私もそのときに見学させてもらって、はじめてお会いして。

オ: CMは関係者以外の人はスタジオに入れないから見学はまず無理。僕も現場では見学の相手をする余裕がないし(笑)。「タップくん」のときは見学の許可をとるのは白組だけだから、見学のお願いをして何人か呼んでた。そのときに川村さんもまさむさんも見学したかな。スタッフに「オカダくん、今日も人くるんだ」って言われたりしながら(笑)

『人形劇ギルド』

た:オカダさんのお仕事だとギルドの話も伺いたいのですが。

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*『人形劇ギルド』
BUNP OF CHIKENの楽曲『ギルド』をもとに制作された15分のコマ撮りアニメーション。2006年DVD発売。ヴォーカルの藤原基央が原作・脚本。監督は番場秀一。炭鉱がある島を舞台に、炭鉱で働く父親とピアノの上手な女の子の物語。Amazonにて購入可能

オ:ギルドはね、そのとき僕はモンチッチでアニメーターデビューはしたけど、まだまだ半人前で。最初、ギルドに参加したのは、彩工房の美術の手伝いとしてで、小道具のピアノとか机・椅子を作ったりしてた。アニメーターはベテランの人がやる予定だったんだけど、途中でいろいろとあってスケジュールが大幅に遅れてね。アニメーターの都合が悪くなって、どうしようってところに、僕が本番用の人形でコマ撮りしたサンプル動画が出てきて、それを見た人たちが「これを動かした人は?」って話になって、じゃあ僕でっていう流れになって。チャンス到来(笑)。撮影は3~4ヶ月かな。モンチッチで作ったスタジオがまだあったから、そこでまたしばらく撮影してね。一回だけバンプの人たちが見学に来て、狭い部屋の後ろにパイプ椅子を置いてバンプの4人が並んで座って見ている前で僕がコマ撮りすることがあったりしてね(笑)。

モンチッチとギルドっていう、すごい分量のコマ撮りを業界に入った時に、いきなりばんばんって出来たから、あれですごく経験積むことができて、吊りとか、虫ピンで足をとめて人形を立たせるっていうのもたくさんやったし。もう人形の歩きもね、この2つの仕事だけでどれだけ歩いたかって、もう何百歩って歩いたんじゃないかっていうぐらい動かした。僕は業界に入ったのが30歳ですごく出遅れたんだけど、そこで結構なアニメの分量を撮ったから、経験的には少しは取り戻せたかもしれない。

人形アニメーション リカちゃん

オ:その後に『人形アニメーション リカちゃん』というのもちょっとやったかな。地方局とケーブルテレビで放映されたコマ撮りのテレビ番組で。1話5分ぐらいで、12話くらい撮ったのかな。垣内さんが半分以上撮って、僕が撮ったのは4話か5話ぐらいで。それがね、またモンチッチとは違って八頭身に近い人間だから歩きとか動きが違う。デフォルメしたキャラクターじゃなくてリアルに近い人形を動かす仕事だったから、ここでも人形アニメーションの経験が積めた。リアルな頭身の人形アニメは僕が一番やりたいものだから、この仕事ができたのはすごくラッキーだったと思う。

初めてのTVCMのアニメート

オ:そういうのを撮ってて、それで初めてアニメーターとしてCMを撮ったのがシルバニアファミリーのTVCMのぶらさがり。CMの本編がおわったあとによく流れる「~もよろしくね」みたいな1秒とか2秒くらいの短い1カット。

た:そのときのメインアニメーターは垣内さんですか?

オ:そうそう、その頃は垣内さんがシルバニアファミリーをやっていて。僕はアシスタントやっていて。それで、僕は今だと1~2秒のぶらさがりなら30分ぐらいで撮れるんだけど、初めてやったとき僕は緊張しまくって3時間かけたの(笑)フルアニメだったけど、せいぜい30~40枚くらいだよ。それに3時間もかけたの。

た:内容はどういうのだったんですか?

オ:シルバニアのキャラが3匹いて、手をふったりジャンプしたり。そのとき動きのチェックで使ったソフトがイギリスのストップモーションプロだったんだけど、あの頃のソフトはバグの塊で(笑)。コマの削除とかちょっとやると、すぐおかしくなるんだよプレビューの動きが。その頃フィルム撮影だったから、すごく緊張もして、もうなんだか訳わかんないうちに3時間も経っちゃってた。「こんな時間かかっちゃだめだ!」と「俺もう終わった」って思って、すごい落ち込んで帰った。電車のすみっこに立って、たそがれて。

でもそれから少しずつCMでアニメをするようになって。シルバニアってカットの数も出てくるキャラもすごく多いでしょ。だから難しいシーンは垣内さんがメインでやって、隣のスタジオでサブアニメーターとして僕が短いカットをコマ撮りしたり。1つのカットに登場するキャラが多いときは二人で動かす人形を分担して同時にアニメしたりね。そんなことをやりながら、かいけつゾロリのエンディングをクレイアニメで撮るとか、CMを一本まるまる受けるような、そういう大きい仕事が少しずつ増えてきてっていう感じかな。

その頃は、ほとんどが白組のスタジオを使った仕事だったんだけど、現場でいろいろな人と名刺交換していると、半年とか数年たったころに、ハウススタジオを使った案件とか外でコマ撮りをする相談が来るようになって仕事の幅が少しずつ広がってきたのかな。

金属加工

オカダさんは自宅に金属加工などができる工房部屋があり、自主制作の人形や、仕事のときの商品をささえる治具などを自分で作ったりしています。

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自宅の工作部屋

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工具類1 _s
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フライス盤や電ノコなど工具が色々

た:金属加工はいつ頃からされてたんですか?

オ: 僕はアマチュアの時からもう球体関節は作ってた。フライス盤はなくてボール盤しかなかったけど。そこら辺は、工学部だからと言ったら大げさかもしれないけど、そんなに抵抗はなかったから。「金ノコ使えば金属切れるじゃん、ドリルあれば穴あけられるじゃん、いけるいける」ってノリだけでやってたから(笑)そうだその頃のアーマチュアが残ってた。これね僕がアマチュア時代に作った球体関節。

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あ:小さい!すごい!

オ:その頃の四畳半の部屋で撮影してたから、初めにセットの大きさ決めて、人形の大きさこれぐらいだねってサイズ出したら人形がこんなくらいにちっちゃくなって。

あ:関節の球を押さえる板が、けっこう薄いんですね。

オ:うん、人形のデザイン考えて、その中に収まるように球体関節を設定していたから(その薄さになった)。やっぱり作品ありきでやってるから、当たり前の話なんだけどね。ホラ、結構さ球体関節好きな人って人形のデザイン抜きでいきなり球体関節を作っちゃうから。そういうの見ちゃうとさ、いやこれでどんなデザインの人形できるんだろうなと思っちゃうんだよね。ちっちゃく作るの難しいんだけど。

あ:丁寧に全部角がとってある。すごいですね。

オ:その頃はね、まだ几帳面だったの(笑)。まだ会社勤めしてて時間ないはずなのにさ。なんかほら、自分が作るものを外に出さないとコマ撮りの何かと繋がりが持てないというか、自分が作ったものがあって初めてどっかと繋がりができるから、とにかく必死になって作ってたの。
確かこのアーマチュアのデザインを参考にしたのが、アードマンの本に乗ってたアーマチュアだったかな、確か。あと、そのボールね、ミニ四駆のパーツを使ってるの。

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このミニ四駆のボールを使うっていうアイデアが、あのね、インターネットが始まる前にニフティのパソコン通信っていうのがあって、その中にフォーラムっていうのがあったんだよね。そこに、そういうコマ撮りの技術的なことを議論しているところがあったんだけど、その中でこのラジコンのボールを使っている会話があって、それをテキストでコピペして取っておいたんだよ。で、やってみたらボールの真ん中に穴開けてシャフト通して固定するっていうのがボール盤じゃ難しいんだけど、この方法ならけっこう簡単にできる。この傘の部分は邪魔だから全部ヤスリで削って落とすんだけど。川村さんと出会ってからは、いろいろと相談もしたりして。そのうち、川村さんが作った球体関節の試作品をもらって動かして感想を言ったりしてたんだけど、そっちのほうが全然出来が良くて使いやすい。それで今は、治具みたいな簡単なものは自分で作るけど、ボールジョイントは川村さんのしか使わない。全然いいから。これぐらいの小さいものが欲しいって言うと、いろいろと工夫してちゃんと作ってくれる。もう付き合いも10年以上になるのかな。

あ:そんなに。20代のころから付き合いがあったんですか。

オ:うんそう、出会った頃は僕はまだ会社勤めしてたし、川村さんもまさむさんも勤めてたし。それで、僕が最初に会社辞めてコマ撮り業界入って、そのうち川村さんとまさむさんも会社辞めちゃって、気がついたらみんな業界に入ってフリーのプロになっちゃってたんだよね。なんか不思議なつながりがあるんだよ。

あ:そういう同期の仲間、正確には同期ということじゃないですが、がいるっていいですね。

オ:ただでさえ僕は友達が少ないからね、数少ないお友達だよね(笑)

つづく

大切なお友達の話が聞けたところで、次の記事インタビュー後編へつづきます。

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「コマ撮り大好きコマドリスト」を名乗って活動中。
コマ撮り映像作家、CM監督、アニメーター。本人が監督するだけでなく、他の監督の企画にコマ撮りアドバイザーとして参加することも。

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